■Q-JiN
政治学者でアジア研究者のベネディクト・アンダーソンの有名な「想像された共同体」(imagined community)を借りることで、この問題に前進をもたらすことができる。「nationとはイメージとして心に描かれた・想像された政治共同体である――そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される」。アンダースンによればnationは一種の人工物(artifact)であり、一個の「想像された政治的な共同体(imagined political community)」である。しかし、このことは、nationが「虚偽の(fabricated)」存在であることを意味しない。採用すべき戦略は、想像の様式(style)、及びこの想像を可能にした制度(institutions)を用いて、この二つの点でのnationの特殊性を理解することなのである。後者についてアンダーソンが挙げている例は「印刷-資本主義(print-capitalism)であり、またそれによって出現した、nationを一個の社会学的な共同体へと変えた新しい文学のジャンルであるところの、新聞と小説である。(Anderson 1991) 実際には、しかし、日々顔を付き合わせる原初的な村落より大きいすべての共同体は(そして本当はおそらく、そうした原初的村落ですら)想像されたものである。共同体は、その真偽(falsity-genuineness)によってではなく、それが想像されるスタイル(the style)によって区別される。(アンダーソン『想像の共同体』原著 1991, 邦訳p17-18 太字は引用者による挿入) スタイル以外でも、共同体を区別するその他の基準をわれわれは当然見出すことができる。たとえば、その規模の大小や、行政組織の階層化の程度、内部での平等の程度などなどである。nationとナショナリズムを研究するうえで主要な目的は、nationにかかわる「想像された」集合的な連帯感の特殊な形式を見出すことである。クレイグ・カルフーンの提供する以下のリストは、多かれ少なかれひとつの共同体がnationとして想像されるための基礎的条件になりうると思われるものをあげている。 境界線(boundaries):地域的なものか、人口的なものか、両者を合わせたものかは問わない。 不可分性(indivisibility):ひとつのnationはひとつの統合された単位(integral unit)であるという主張。 主権(sovereignty)あるいは主権への希求:他のnationとの間にある種の公式な平等関係が維持され、また通常は一種の自主性と、自給自足性が維持されていることが必要とされる。 合法性(legitimacy)の「上昇(ascending)」的あり方:政府は大衆の意志(popular will)によって支持されている必要があり、最低限でも、「人民(the people)」あるいは「民族(the nation)」の利益に符合している必要がある。 集団の事務への大衆の参加(participation):nationのメンバーであるという身分を基礎として一定の人々が動員されること。(戦争にかぎらず、民間の活動においても) 成員の身分(membership)の直接性:すべての個人はnationの緊密な部分として理解され、成員の間にもまた完全な平等が存在すること。 文化(culture):言語、共有の信仰、価値、さらに風俗習慣などを含む混合物。 時間的な深さ(temporal depth):nationは時間的な実在でなければならず、過去と未来の世代を含み、同時にその歴史を持つ。 共通の祖先(descent)あるいは種族的な特性。 特別な歴史(history)や、時には、特定の地域との神聖な関係。(Calhoun 1997, 4-5) 注意すべきことは、カルフーンが正確を期して述べていることであるが、これらの特徴はナショナルな「修辞(rhetoric)」なのであって、通常nationを記述する特徴として主張(claims)されるものなのである。実際、われわれは経験的な手段(empirical measures)に訴えてnationを定義することはできない。たとえば、主権が達成されているかどうか、内部が分裂しているか、一貫性が維持されているか、あるいははっきりとした境界線を引けるかどうか、ということをいうことはできない。逆に、nationは通例大いにこれらの宣言主張によって構成されているのであり、これらの宣言主張は単に記述的なものではなく、規範的なものでもある。これらの特徴は、ナショナルな感情(a sense of nationhood)の基礎を提供するに十分でありうるが、しかし、ひとつとして絶対に必要な特徴というものはない(Calhoun 1997, 5)。異なるグループに対して、かれらが自分たちがひとつのnationを成す所以を主張するとき、そのことによって実際に、別の種類のグループが事実上建設されるのである。われわれはすべてのこうした主張を仔細に検討し、これらの主張を、その人々を結び付けている一種の信仰として認識する必要がある。ケラスは、nationは定義可能であるとして、以下のような定義を提案している。 一定のグループをなす、みずからを歴史、文化、共同の祖先によって結び付けられた共同体であると感じている人々。nationは「客観的」な特徴を持ち、これらの特徴は、地域、言語、宗教、共同の祖先を含むことができ、また、「主観的」特徴として、特別な(nationality)に対する認識と感情をも含む。(Kellas 1991, 2) 英語でいうethnic group、あるいはFX 語やドイツ語などでエトノスといわれる用語は元来、古代ギリシアでポリスの住民であるデモスに対して、ギリシア人でもポリスを形成していない地域の住民や、非ギリシア人といった周辺の住民の種族的単位を呼んだ言葉に由来する(特にアリストテレス以降は非ギリシア人に限定して使う傾向が強まるという)。 この、ギリシア語ethnos、形容詞形ethnikosは旧約のギリシア語訳聖書で、非ユダヤ人、異教徒を指すヘブライ語の訳に使われ、中英語でも、異教徒、異邦人を指した。そこから、近世には、英語では、アイルランド人などを、やや軽蔑的なニュアンスで呼ぶ言葉としても使われた。たしかに元来のギリシア語のエトノスには、より一般的に或る一定のグループをなす人々、種族、民族、国民を指す意味があるのだが、民族学が命名される際にこのギリシア語が復活されたとき、そこに単に民族というだけでなく、異教徒、他者としての異民族というニュアンスが入っていたことは否めない。 大航海時代とそれに続く西欧による植民地化によって、西欧はさまざまな異なる文化・習慣を持つ人々に出会うこととなった。のとき、これらの異なる、西欧的な基準で「文明」を有しないとされた人々を指す言葉として使用された言葉の一つが、このethnicという語であった。まさしくエスノロジー(文化人類学)の対象がエトノスだった。 しかしエトノス(エスニック・グループ、エトニ)の用語が当初から用いられたわけではなく、文化人類学、民族学は、その対象となる人間集団を、多くの場合は、nationやpeople、volkの用語で呼んだ。明示的に、ネーションと区別された概念としてエトノスが導入されたのは比較的近年のことである。とりわけネーションがいまだ国家との一体性を強い含意としてもたなかったナショナリズム以前の時期には、ネーションやレースは、しばしば単にエスニックな意味合いで用いられた。 エトノスが社会科学の概念として導入された意味のなかには、とりわけアメリカや中国、ソ連などの「多民族国家」において、下位区分であるethnosが民族自決権を持たないという含意がある。もし、個々のethnosが民族自決権を持つなら、個々のethnosがnationとして独立することを主張することになる(このイデオロギーをエスノ・ナショナリズムethno-nationalismという)。ソ連や中国のような多くのエトノスethnosを包含した国では、ethnosに民族自決権を認めるならば、先物取引 が分解してしまうという危惧が存在していた。このゆえに、nationと区別してethnosという語がさかんに用いられるようになった。 非西欧の異民族、国家内部の少数民族に対する、こうした、ナショナルな主権、政治性、民族自決権を認めない、あるいは度外視して扱う、という差別化の視線は、そうした文化人類学的な、非政治的という形での植民地主義的・政治的な視線の対象であった諸「民族」がナショナルな意識を身に着け始めるにつれて動揺し始める。 そこで、代わってえがかれるようになる図式のひとつが、エトノスが政治的に「進歩」してネーションを「獲得」するという進化図式であった。しかしこの図式は、エスニックなものをネーションの「基盤」となるものとみなすという点で、ネーションについて批判された「本質主義」をエトノスに転化するものであると同時に、裏口から「政治的な成熟度」のような西欧的な「文明」によるランク付けを保存する面もある。 ある人間集団をエトノスとして見つめ、ネーションとしてみないということは多くの場合、非常に政治的な、しばしば差別的な含意を持っているが、文化人類学的な分析視点にネーションがなじまない、過剰な概念であることは事実であり、また近年では、かならずしもナショナルな主張を行わないエスニック・グループも多く(国家・ネーションが、マルチエスニックであることを要求し、それが擬似的なエトノスとしての一体性・均質性を志向することを批判する、反同化主義でかつ非分離主義)、この区別の意義を単に政治的に批判することはできない。 エスニック・グループはもっとも曖昧な形で定義すれば、同族意識を持ち、同種の文化・伝統・慣習を有する人間集団である。しかしネーションについてと同様に、想定される出自・血縁関係や、同族であるという信念・伝承は、必ずしも客観的な事実には基づかない。ネーションとは異なり、エスニック・グループは、統一された政治的共同体を形成していることは必須ではなく(ネーションの場合、そのような分断状態は、強い例外状態の意識を呼び起こす。多くの憲法等に見られる「不可分の」ネーションという用語が典型的である。またこのことは、ネーションと特定の国土・ホームランドとの関連性をも示唆しているかもしれない)、その為の権利・主権があるとも通常はみなされない。(ただしエスノ・ナショナリズムは、エスニック・グループがネーションである、まだはネーションであるべきと考える)