- ■キャリー独立
- 1808年にはフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』Reden an die Deutsche Nationの講演を行ったがいまだ反応は鈍かった。結局、やがてドイツ統一はナショナリズムによってではなくプロイセン国家主義によって遂行された。この歴史的・文化的・言語的で、宗教的平等理念と人民主権の意味合いの希薄な民族概念と権威主義的な国家主義という組み合わせは、とりわけ遅れて資本主義化した、より東方の諸国に一定の影響を持った。 こうして、「生まれと歴史を共にすると想定されたものたちによる独立への主張」とでもいうべきナショナリズムの成立と高揚は、このnationという概念に著しい政治性を帯びさせ、エスニックな意味合いと、人民主権的な意味合いとの間に内的な緊張をもたらした。こうした経緯により、フランスやアメリカのナショナリズムは、「過去の歴史の共有」ではなく、「これからの歴史の共有、その意志」という普遍主義的で時には同化主義的な性格を帯びることになった。(1882年エルネスト・ルナン『国民とは何か』Qu'est-ce qu'une nation?「nationとは日々の人民投票である」) こうして成立したnationを歴史学や政治学、社会学などが反省的に定義しようとしたとき、nationを区分すべき基準となる特徴を確定する試みがまずなされた。 「そこにひとつの独立の言語を見出すことができるところには、ひとつの独立のnationが存在する。」(フィヒテ) nationを政治的独立を獲得する独特な共同体として考える定義としては、まずヘルダーをあげることができる。ヘルダーはnationを一種の「特殊な言語と文化を備えた集団」とみなした。十九世紀のはじめ、フィヒテはこの考え方を推し進め、一個の独特の言語グループはかならず一個の独立のnationであり、自らの生活を持たねばならず、そしてまたその自らの生活を制御できなければならないと主張した。今世紀に入って、研究者は民族体の構成内容について、言語以外にもたくさんの客観的基準を付け加えた。共同の地域、血統、エトニ(族群。スミス、文化的な原初的共同体)、宗教、あるいは共同の信仰などである。(クリフォード・ギアツ、アントニー・D・スミス、ヨシフ・スターリンなど) スターリンによる、1913年の論文『マルクス主義と民族問題』(МАРКСИЗМ И НАЦИОНАЛЬНЫЙ ВОПРОС Marksizm i natsionalnyi vopros)での定義は以下のようなものである。 「Нация(ナーツィヤ)とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態、の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人間の堅固な共同体である。……これらすべての特徴が存在するばあいに、Нацияがあたえられるのである」 しかし、研究者の中にはこれらの客観的特質がnationの定義の十分条件をなすことを、はなはだしい場合には必要条件をなすことすら否定するものもいる。(Canovan 1996; Gellner 1983; Hobsbawm 1992; Renan 1994) ホブズボームの説得力のあるデザイン会社 によれば、もしも、nationに一個の定義を下さなければならないならばいわゆる客観的な条件はすべて適切な基準ではない。言語を例に挙げて、ホブズボームは資料に訴えている。イタリアが1860年に統一されたとき、正統な標準イタリア語を話せたのは全体の2.5%にすぎなかった。ほかにも、1789年のフランス革命の勃発時に半分以上のフランス人はフランス語を話せず、南フランス住民の殆どはオック語話者だった。いいかえるならば、いわゆる民族言語というものは、主としてナショナリズムの実践の結果なのであって、ネーションやナショナリズムの原因とみなすことはできないのである。そのうえ、こうしたnationを定義するのに用いられてきた「客観的」基準、言語、エトニ、その他のものも、それ自身が変化しうるものであり、明確な定義も欠いている。 われわれはゲルナーにこうした観察に関連した論点を見ることができる。 人間を分類する自然で神与の仕方としてのnation、ずっと遅れてやってきたが生得の政治的運命としてのnation、それは神話である。ナショナリズムは、時に先在している古い文化を取り上げて、それらをnationに変えて行くこともあるし、時にそれらを作り上げることもあるし、しばしば先在文化を完全に破壊することもある。よかれあしかれ、それが現実なのであり、一般的に不可避の現実なのである。(『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p82-83 原著1983 原文はnationは民族) nationの本質は主観的な意識(subjective consciousness)なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。 ヒュー・シートン=ワトソンは「ひとつのグループが相当部分を占め、みずからを一個のnationをなすべきと考えるようになったとき(consider themselves to form a nation)、あるいはかれらがすでに一個のnationをなしているかのように振舞うようになったとき(behave as if they formed one)、たちまちひとつのnationが存在するようになる」(Seton-Watson 1977, 5)と主張する。 エリック・ホブズボームも同様の看護師 求人 をとり、nationを定義していう。「最初の作業仮説として、人々の十分に大きな集団があって、その成員が自らを「ネイション」の一員とみなしているのであれば」(regard themselves as members of a “nation”)、それをネイションとして取り扱うことにしよう」(ホブズボーム『ナショナリズムの歴史と現在』 邦訳 p10) まさしくこうした意味において、アーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、nationがやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつのnationはかならず、互いにひとつのnationに属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する。(Gellner 1983, 48-9)。 nationとは人間の信念と忠誠心とテレマーケティング とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住人であるとか、ある言語を話す人々であるとかいった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いにある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、nationとなる。ある範疇の人々をnationへと変えていくのは、お互いがそのような仲間であるという認知であって、何であれ、彼らをメンバー以外の人々から区別するような他の共通する属性ではないのである。(『民族とナショナリズム』ゲルナー 加藤節 監訳 p12 原著1983 原文はnationは民族) 実際、こうした現代の研究者がnationの主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかにはやくから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体(nationhood)の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、nationを定義するのには役に立たたず、そのため、nationという概念が、「価値的領域(sphere of values)」に属していることを発見するに至った。nationという概念は、主として、本質的に、「ほかのグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている。(Weber 1958, 172)。 ルナンもまた1882年にはやくも指摘している。彼によれば、こうした条件、たとえば、共同の地理や地域、言語、種族あるいは宗教、そうした条件を持っているということは、少しもnationの存在の十分、あるいは必要条件とみなすことはできない。それに反して、nationは互いに関連した二つの要素をもっている。ひとつは、過去の記憶の豊かな遺産の共有(a common possession of a rich heritage of memories in the past)であり、もうひとつは、ともに暮らし、これらの遺産を受け継いでいこうという決意(a desire to live together and pass on the heritage)である。そのため、われわれがnationの本質について認識を深めようと思うのならば、こうした特別な歴史の家庭教師 から出てきた連帯感(solidarity)の探求を進めなければならない。そのため、nationは一種の道徳的形式(a form of morality)として理解されるべきなのである。(Renan 1994)。 たしかに上述の主観的な要素はnationの形成過程において重要な役割を演じていることは間違いないのだが、しかし、この主観的な意識による定義は、実際に採用するにははっきりと不十分な点が存在する。集合的な連帯感はほかのさまざまな社会的団体、家族や結社、商業組織に存在しうるもので、nationに限定されるものではない。主観的な意識は最低限の条件なのである。 解決の鍵はこうした主観的な要素が客観的な基礎の上に構築されると認識することである。現実の生活においては、nationのメンバーは、自分が集合的な連帯感によって繋がれて、ひとつの団体をなしているとはみなしていない。反対に、いくつかのそれ以外の要素を列挙する。共通の文化、祖先、歴史、政治制度、あるいは特定の地域への帰属意識などである。こうしたものによって彼らはひとつに結合されているのである。