- ■カンゴジョブ
- 被選挙権(ひせんきょけん)とは、参政権のうちの1つであり、当選人の資格すなわち選挙を経て公職に就任する資格もしくは地位を指す。被選資格(ひせんしかく)とも称する。なお、選挙権と被選挙権が同じ要件の選挙を互選(ごせん)と呼ぶ。 被選挙権を選挙権によって認められた選挙に参加する権利の一環である「立候補の自由」とみなす見解がある一方で、選挙を通じて当該公職に相応しい人物を選び出すのが選挙の目的であるとして、被選挙権を権利そのものではなくて権利能力とする見方を採用して、選挙で選ばれた場合に公職に就くことを許される資格と捉える見解もある。そのため、選挙権と異なる要件を付される場合があり、その場合には選挙権よりも要件が狭くとらえられることとなる。 例外的に被選挙権を有しない者については公職選挙法11条・11条の2・252条、政治資金規正法28条に規定がある。 民族(みんぞく)とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(国語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となる。日本語の民族の語には、近代国民国家の成立と密接な関係を有する政治的共同体の色の濃いnationの概念と、政治的共同体の形成や、集合的な主体をなしているという意識の有無とはとはかかわりなく、同一の文化習俗を有する集団として認識されるethnic groupの概念の双方が十分区別されずに共存しているため、その使用においては一定の注意を要する。 日本語の民族という言葉には二つの主要な意味内容が存在する。一方はネーション(nation)であり、もうひとつはエトノス(ethnos:英ethnic group)である。 中国の古典では「民族」は一定のグループをなす人々の共同体を指す。近代的な、文化的な固有性というニュアンスでの「民族」の用例の最も早い例としては、六世紀の南斉書列伝三十五の「高逸伝・顧歓伝」中の「今諸華士女、民族弗革、而露首偏踞、濫用夷禮」(民族を氏族とする写本もある)という記述をあげることができる(なおこれは、士大夫やその子女までも中国の北朝の異民族の風俗に染まっていると述べている部分である)。しかし、この歴史書は南史編纂後は読まれる事が少なくなったと言われており、現代日本の民族概念に影響を与えている確証はない。これはあくまでも中国語における民族の語源を示すものであって、日本語の社会科学の概念としての民族をいかに定義するかの問題とは混同されてはならないだろう。 訳語としての「民族」は、nationに対するものであるとされている。しかし、西欧語としてのネーションの政治的自己意識、統合性、独立性、主権性といった概念をも含む語義とは、日本語としての「民族」は完全には一致せず、国家のなかの、あるいは国家以前の、同一文化集団、民族誌学的な意味での、文化・生活様式を基準とした集団である種族にも同じように通用される。文化的・民俗的帰属意識と政治的同胞意識は必ずしも一致しないが、日本語の民族はどちらの区分による用例かはしばしば判然としない。 この区別は、同一文化集団は容易に政治的帰属意識を獲得しうる為に日々動揺する。しかしこのことは、同一文化集団が政治的自己意識を獲得する以前からあらかじめ潜在的にすでに「眠れる」nationであるということではない。事後的に、始めからnationであったことになるのである。 なお、当初は、nationの訳語としては「種族」や「人民」もひろく使用された。アダム・スミスの『国富論』に見られるように、国民の訳も用いられた。ヘボン『和英語林集成』(三版)はnationの訳語に、国民、人民だけをあげている。 もちろん、戦前においてカタログギフト にウッドロウ・ウィルソンの民族自決権の思想などが紹介されており、早い時期から民族がnationの訳語として用いられていた点にも注意すべきである。 現代日本語では、nationは民族、国民、国家、国民国家、ネーションなどと強調されている側面に応じて訳し分けられる傾向にある。(よって本稿の内容も一部は必然的に国民の項と重複せざるをえない) 他方でethnic系統の語については事情は複雑であり、一般的には民族と訳されることが多いが、学術的な文脈では必ずしもそうではない。エスニック・グループは、社会科学の分野では、エスニック集団などと訳し、民族という語を避ける場合も多い。(なお台湾などの中国語圏でも、民族nation概念に対して、ethnic groupは"族群"と訳され、民族との訳語を避けることが多く、日本でも族群概念を導入した論文もある。)日常語では何の問題もない「少数民族」という言葉も、社会科学では極めて問題含みの言葉として批判されることもある。 こうした日本語「民族」の曖昧な多義性を、現代において露呈してきたエトノスとネーションの曖昧で明確な区分の難しい、複雑な関係性を表現可能な言葉だとして肯定的に評価する立場もあるが、エトノスがネイションの下位区分として導入された点を重視し、両者を訳し分けるべきだとする考えもある。しかしその場合にも、民族を、どちらの語義にひきつけて定義し、新語をどちらに当てるかには、一致した見解は得られていない。したがって社会科学的な概念として民族概念を使用する場合には、それぞれの論者がいかなる意味で用いるのかを明らかにすべきだろう。その場合、単純に原語をエトノス、エスニック・グループなどと音訳して使うという立場も便宜的ではあるがしばしば見られる態度である。 リーア・グリーンフェルド(『ナショナリズム』1992)によれば英語ではnationは以下のような五段階の変化を経てきた。 ローマ帝国時代にはnationは同一の地域からやってきた異邦人の集団を指した。(a group of foreigners) 中世には大学の成立以後、nationは意見を共にするグループを指すようになった。(a community of opinion) 続いて、nationは聖堂参事会(church council)のメンバーとの間に意味上の関係が生じ、エリートの含みを持つようになった。 十六世紀初期のイングランドで、nationは主権を有する人民(a sovereign people)を指すようになった。 そうしてその他の国の人々がnationを自らを呼ぶのに用いるようになった後に、nationが指す対象は再度変わり、一群の特有の人々(a unique people)の意味になった。 元来、nationはラテン語において「生まれ」を意味するnatio(ナティオ)に由来する概念であり、gens(ゲンス)とならんで血統と出自の女神を意味した(ハーバーマス『事実性と妥当性〔下〕』邦訳275頁参照)。家族より大きく氏族よりも狭い、「同じ生まれに帰属する人々」を指すリサイクルショップ 神戸 であった。 中世にはnatioという言葉はボローニャ大学やパリ大学をはじめとして、同じカレッジの構成員、または学生たちのグループを指した。かれらは同じ地域の出身で、同じ言語を話し、自分たちの慣習法に従うものとされた互助的な自治組織であった。しかしこれらは国家を基準としたものではなく、あくまでもゆるい地理的な基盤によるものであった。たとえば、1383年と1384年には、パリ大学で神学を学んでいたジャン・ジェルソンは二度にわたってフランス人学生団・同郷団(French nation・フランス生まれでフランス語を話す学生たち)の代表に選出された。パリ大学での学生のnatioへの分割はプラハ大学でも踏襲された。1349年の開校以来、ストゥディウム・ゲネラーレ(studium generale)は、ボヘミア、バイエルン、ザクセン(マイセン)、そして、ポーランドのnationに分割されていた。 中世後期から近世にかけてのヨーロッパでは身分制議会を構成して、必要に応じて国家の案件に同意を与える特権的な身分階層を、集合的にnatioと呼んだ。この意味でのnatioは種族的な出自を問わず、身分や地位によって規定されるもので、高位聖職者や中小の貴族身分などからなっていた。この時期にはエスニックな種族的な意味合いは、主としてgensによって担われていた。 この王と国家の支配を分かち合うnatioのヒューマン が、近世に絶対主義の成立とともに次第にgensと近づき、あるいは混同されていき、ひとつの言語的・文化的・血統的に規定されるgensが、ひとつのnatioを構成すべきという思想が成立していった。このnatioとgensの語義の融合の原因は、封建国家の機能不全のなかで、natioの範囲を広げることで広い同意を取り付けることが王権に必要とされたからである。そのためにnatioを特権階層から一般民衆まで拡大する上で、gensの種族的な枠組みが援用された。 イングランドでも同様であったが、とりわけこの特権身分としてのnationの一般民衆への意味的拡大はテューダー朝において進行した過程であった。薔薇戦争によって多くの貴族が没落したあとに成立したこの王朝の下にあって、新しく出現した貴族階級はnationをpeople(民衆・庶民)へと意味的に接近・融合させた。このnationの再定義によって、主として成長しつつあった富農、新興地主階級、ジェントリなどに実質的には限られてはいたが、身分制に縛られず民衆もまた国政エリートへと上昇しうるものとされ、原理的には主権に与かるnationの一部となった。 また、1611年の欽定訳聖書でユダヤの民を意味するヘブライ語goiがnationと訳されたこともひとつの契機となった。宗教改革の盛り上がりとともに、清教徒革命による議会の勝利を経て、国教会を形成するイングランド国民をひとつのあらたな契約の民nationとみなす傾向・用法がnationに宗教的一体性と種族的独自性という意味合いを付け加えた。 聖書の中のヘブライ人は、理念的・宗教的な一体性と平等性を併せ持ち、ひとつの神的な歴史を共有し、ひとつの国土(ホームランド)と運命的に結び付けられ、ひとつの法(十戒)のもとに結びつき、しかも、普遍的に拡大しうるものではなく、ある特異な、限定された個別的な集団として、他の同様の民族をリサイクルトナー するものであった。この時期のイングランド人は自らをnationとして想像する上でまさしくそのようなものとして理解しようとした。これが現在のnationが想像される様式にも大きな影響を及ぼしている。 こうして元来「生まれを共にする集団」というようなゆるい意味での言葉が次第に特殊化していき、啓蒙思想においてジャン・ジャック・ルソーの社会契約説と一般意思、そしてかれの反普遍主義的な郷土愛の主張を経て、フランス革命を経て十九世紀に理念化されヨーロッパに拡大することとなった。(国民議会Assemblee nationale)しかしフランス革命は混乱に陥り、nationとしての一体感と平等の感情を事実として確立するにはいたらず、ナポレオン戦争へと至るテロルと戦争のなかで、そのnationは共和主義的なイデオロギー性と軍事的な色彩を帯びた限定的なものであった。(ギリシア・ローマ的愛国主義の範例) 一方で、nationの基盤になるべき中央集権的な統一を欠いていたドイツにおいて、ヘルダーは言語・歴史・文化を共有する共同体としてVolkの概念を主張した。ロマン主義者やグリム兄弟やヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどに影響を与え、民俗学の成立に寄与した。かれのVolk概念はnationをエスニックに定義する傾向に強い影響を与えた。(エスニック・ナショナリズム、原初主義)しかしこの概念にはnationに含まれていた人民主権の意味は薄弱であった。のちにナチスが第三帝国で強調したのは人種主義的に解釈されたVolkであり、Nationは自由主義的な概念として非難の対象となった。