- ■カイゴジョブ
- 知識人(もしくはインテリゲンチャ)の対義語として扱われる場合には、知識の過程に参加せず、つまり日常生活の範囲でしか思考しない(と少なくとも知識人側が見なす)圧倒的多数派を指す。 大衆は、もともと政治や哲学、文学には関心がない、とする。しかし生活に不満を持ったときのみ爆発的なエネルギーを示す。そうして、生活に不満がなくなれば、政治の場を去り、生活の場に戻って行く。日本では60年安保闘争のあと、主役になった大衆は街頭から消え、知識を振りかざす活動家だけが残る。活動家は、ときとして「大衆は愚かだ」と述べる(大衆蔑視)。 権力を対比させる対象に据えた場合、大衆は権力の影響を被る側である。この場合において、個々の大衆は常に無力な存在である。 民主主義社会においては、大衆こそが権力を持っているという建前だが、実質的に大衆には必ずしも適切な施政者を選択する能力が求められないか、持たないということを前提にしており、結果的に施政者に権力が集中して大衆はその恩恵を被るか、若しくは不適切な施政者によって搾取される可能性があるとする(権力の分立、治者と被治者の同時性)。 大衆はしばしば納税者や徴兵対象者と同義であるが、大衆は受動的に納税や徴兵を強要される存在であり、これらは社会維持への対価というよりも、単なる搾取と受け止められる。他方、施政者はそのような状況下では、権力を大衆から社会維持のために預かったものという認識を欠き、無駄遣いや私費との混同を招く。逆に大衆を権力基盤とする政治家(ポピュリスト)は、大衆への利益の還元を優先するため、国庫財政や国家経済の破綻をもたらす。 専制政治では、大衆は施政者を取り替えることができない。だが納税という形を通して間接的に政治に関与することができる(良くない政治の元では生活が苦しいために多くの納税が出来ず、良い政治の元では活発に利益を上げられるため多くの納税ができる)が、場合によっては施政者が無能であるばかりに、大衆がその不利益を被るケースが発生し、社会不満が増大する。 増大した施政者への社会不満はしばしばテロや、暴動という形で爆発するが、もとより権力の元に個々の大衆は無力であるため、主導者が検挙されたり施政者側のテロ(恐怖政治)により鎮圧される。あまりに社会不満が大きく普遍的に過ぎる場合は、この暴動が権力側の手に余る事態に発展する。特に検挙する側の警察機構や、鎮圧すべき軍部も元々は大衆であるため、同じ社会不満を抱いている場合には、大衆の動きに呼応して、一緒になって施政者を放伐する。革命ともなると権力者は大衆の力の前に成す術もなく打ち倒されるが、大衆は新たな統治者を求める。 主導者を擁立し、同じ不用品回収 意識を持って活動する場合、大衆は無力ではない。民主主義社会では、暴動や革命といった暴力的な行為に拠らないでも、選挙という形で直接的または間接的に施政者を選択することができ、あるいは自ら施政者となるために立候補することも可能である。 生産者は消費者が求める物を生産することが求められる。生物界では生産者は消費者よりも多数派であるが、人間社会に於いては生産者(メーカー・企業)は消費者に対して少数派である。この人間社会の生産者に対する消費者が、いわゆる大衆である。 大衆は常に、安価な良い物(製品)を求めるとされており、メーカーや企業は常にそのニーズに呼応する形で商品を提供、その代価を受け取ってきた。しかし一部には、粗悪な製品を安価で販売することで、代価を受け取る企業もある。粗悪な製品であっても、それに求められる代価が適正である場合は、大衆は然程問題としない。 しかし中には一見して粗悪な製品に見えないものを高値で売りつける所もあり、これは粗悪品または不良品として問題視される。往々にして大衆は自分の購入したいと思う製品に対して、その仕組みや良し悪しまでもを熟知していることは稀(ブラックボックス)である。このため製品を利用するまでは、それに含まれる問題点や欠陥を消費者である大衆が見抜くことは難しいが、実際に使用して行く中で、支払った対価程の利便性が得られない・または何等かの損害を被るというケースも発生する。 大衆は(生産者と比較すると)無知であるために、粗大ごみ な製品を製造・販売する生産者に騙され易い。しかし騙されると、それに関連する商品にまで不信感を抱くため、他商品の売り上げにまで風評被害が波及することもある。このため多くの社会では、消費者である大衆を保護すると共に、それに損害を与えかねない生産者は罰せられる。日本ではこの役割を国民生活センターが担っており、他の地域でも往々にして、これに類する消費者保護団体が存在する。 この場合、大衆は無知であるが故に保護されると共に、その保護を受けることで生産者に一定の発言権を持つといえる。生産するメーカーや企業は、大衆が求めない商品を作っても売れないだけなので、常に消費者である大衆の嗜好を知りたいと考えている。またその一方で大衆は自分達の言動やライフスタイルを暗示してくれるような未知の商品を求めており、革新的で思いもよらない新規商品をしばしば熱狂的に支持するため、商品企画者はつねにこのあい矛盾している大衆性のディレンマに直面している。 かつて貧しい時代・地域に於いては、辻々に設置された街頭テレビは大衆に対する娯楽の提供を行った。後にこの装置が一般の家庭に普及すると教育の一端を担う共に、大衆の生産を行っていると見なされ、テレビの視聴を持って大衆と位置付ける人も見られる。 その一端には活字離れに対する危惧がある整体師 だが、近年では質の高い番組も増えた事から、文化的なメディアと位置付けられる場合もあり、一概にテレビ視聴を大衆の特徴と位置付けるケースは減っている。 しかし猥雑とされる放送内容も少なくないことも在り、今尚テレビ放送を目の仇にする教育関係者も見られ、同様の考えから視聴する側を長時間拘束しがちな他の娯楽メディアに対しても、一定の嫌悪感を表明するケースも見られる。 近代では漫画が、現代ではテレビゲームがその「大衆の消費するメディア」の槍玉に挙げられている。またこの他にも、写真週刊誌が下世話な好奇心を煽っているとして敵視されたが、イエロー・ジャーナリズムの類として社会に飽きられるのも早かったため、一過性の傾向に終わっている。 一方、大衆はこれらメディアに扇動されやすいとも見なされる。これは大衆が暗示に弱く、また自己の判断能力に自信がないため、大勢に同調しやすい傾向があるためだとされている。他方、教育の不足から来る迷信や、判断材料不足も関係するとされ、結果的に扇動されやすいのだと説明されるケースも見られる。 これらは先の活字離れと並んで理科離れに於いても問題の一端として挙げられる傾向があり、特に知識や理解が不足することで、正しい判断が行えないのだと言われている。 メディアそのものが大衆性、群集性を示現するものとしてメディアスクラムが挙げられる。報道被害の原因としてメディアの大衆性が問題となる。 大衆でも、特に統制を失ったまま流動する「群集」(→人間の群れ)は、危機管理の対象として扱われる。 群衆警備となればパニックや群衆雪崩、将棋倒しによる事故を防止するという側面がより強調される(例:明石花火大会歩道橋事故) 国民主権(こくみんしゅけん、英:popular sovereignty)とは、国民が政治権力の源(拠り所)であり、政府は国民の意思により設立され運営される機関であるとする思想のこと。一般には国民が代表者を通じて間接に、あるいは国民投票などを通じて直接に、国家の最終的な意思決定を行う権力を行使すること(権力的契機)、または全国民が国家権力を究極的に根拠づけ正当化する権威を有すること(正当性の契機)を指す。主権在民ともいう。 日本国憲法においては、平和主義、基本的人権の尊重とともに、国民主権を三大原則の一つとしている。この憲法における国民主権は、個人主義と人権思想の原理に立脚する、とされている。 国民主権のもとでは、主権は国民に由来し、国民は選挙を通じて代表機関である議会、もしくは国民投票などを通じて主権を行使する。その責任も国民に帰趨する。 国民主権には、先に挙げた2つの要素(権力的契機と正当性の契機)が含まれていると考えられている。 このうち、権力的契機は国家の最終的な意思決定権力の行使であるから、具体的には国家の最高規範の定立すなわち憲法制定権力(制憲権)の行使として表れる。しかしながら、制憲権の行使を自由に認めることは憲法秩序の不安定化を招くため、制憲権の行使たる憲法制定時に、制憲権自身がその権力を、制度化された制憲権としての憲法改正権として憲法中に封じ込めたと解されている。また、権力的契機の面における「国民」は、実際に国家の意思決定権力を行使することから、有権者(団)を意味するものと解される。さらに、国民が国政についての決定権を有することを強調することは、直接民主制と密接に結びつく。 これに対して、正当性の契機における「国民」は、国家権力の正当化し権威付ける根拠であるから、有権者に限定されず、全国民を意味するものと解される。また、国民の国家権力に対する正当化・権威付けを強調することは、代表民主制と密接に結びつく。 なお、両契機における国民を同一視する学説もある。 国民主権における「国民」をどのように解釈するかについて、上記の「有権者(団)」と「全国民」という対立は国民主権の行使される契機からの分類であったが、そのほかにも、ナシオンとプープルという対立をとることができる。 ナシオン主権とは、「国民」を「過去から未来までを通じて存在する、抽象的な人間の集団」と考える説である。この説によれば、主権者たる「国民」の意思は抽象的にしか存在しえず、これは自由委任に基づく代表者による討論の中で再現される。この点において、ナシオン主権は代表民主制(究極的には純粋代表制)、制限選挙制と密接に結びつく。制限選挙制と結びつくのは、抽象的な国民の意思を再現すべき自由委任に基づく代表者の選出には、一定の能力が必要とされると考えられるからである。 これに対し、プープル主権とは、「国民」を「現に存在する人の集団(能動的市民からなる有権者団)」と考える説である。この説によれば、主権者たる「国民」の意思は、現に存在する人々の具体的な意思であり、直接民主制あるいは命令委任に基づく代表者によって具体的に表される。この点において、プープル主権は直接民主制、普通選挙制と密接に結びつく。普通選挙制と結びつくのは、全国民からあまねく意思を吸い上げることで、具体的な国民の意思が表れると考えられるからである。