- ■ガールズウーマン
- 1400年代〜1500年代のころになり、ガリレイ・ケプラー・ニュートンらの活動によって新たな世界像が提示されるようになると、人間が宇宙の中心であるという図式が揺らぎはじめた。また、デカルトによって人間の身体までも、化学的、物理的組織だとする視点が広く流布されるようになった。[11] 1700年代になると、ラ・メトリがデカルトの概念を継承し「人間機械論」を発表。1800年代にはダーウィンが自然選択に基づく進化論を唱え、動物と人間との境界を取り払いはじめた。[12] 今日の生物学は自然選択説も含めた生物の進化を基盤として成り立っているため、先進国の知識人や自然科学者など、現代生物学を受け入れている人々は、我々人間は猿からネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば単細胞の微生物から進化してきたと見なしている。こうした観点を端的に表現した概念としては、社会生物学の「利己的遺伝子」の概念などが挙げられる[13]。 ただし、人類全体ではダーウィン風に考えている人は今でも必ずしも多数派というわけではなく、例えばアメリカ合衆国などでは伝統的なキリスト教の世界観および人間観を保ちつづけている人のほうがむしろ多数派であることなども知られている。 第二次世界大戦時代、人間(科学者、技術者、政治家、軍人ら)は、一瞬にして10万人以上の人々を殺戮するような原子爆弾をつくり出してしまった(写真:「ファットマン」のキノコ雲)かつては、人間自ら最も進化した生物として「万物の霊長」と称していた時代があったが、皮肉なことに大量殺戮兵器を使用した世界レベルの戦争は人間の知能の所産である科学技術が自らに牙を剥きうる事を如実に示した。また人間は産業革命の時代から続いた大量消費によって自然破壊、環境問題などを引き起こしている。今も、人間のあるべき姿は問い続けられている。 この記事の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。 近代以前の言語では、日本語の「人間」に相当する表現が、現在の「自由人」の意で用いられ、筆者自身はそのことを意識さえしていない、ということもあった。つまり、奴隷や農奴などの存在が自明当然のこととして扱われ、人間と言う時に彼らが除外されていたことがあるのである。一部の文献の解読に際しては注意しなければならないことである。 また、かつては各国において、他民族を排斥する時など、相手の民族を貶めるため、「彼らは人間ではない」「野生の動物である」などとする発想や表現が存在していた。今日では非常に忌避される発想ではあるが、このような考え方がありふれていた時代もある。[14]その後、人権思想も広まり、このような差別的な考え方、人種差別的な考え方は現在では世界的に嫌悪されることが多くなり、公に表明されることは少なくなった。現代では文字通り非人間という観念はなく表立って表れることはないが、ナショナリズムなどが絡む問題ではレトリックとして他民族・他人種を動物に擬する、或いは結びつける言葉が飛び出すことがあり注意を要する。個人攻撃も参照。(もっとも第二次大戦後はナチズムの反省もあり大規模な傾向は減少している) 日本での問題としては、被差別部落民を指し「非人」と称していた事があった。「人非人」という表現もあったが人であって人に非(あら)ず、と言うのは矛盾しているため人という言葉はここでは2つ、生物学的な人と(自分たちの)社会に入ってない人を使い分けていた事が窺える。[15]。 人間の基準のひとつとして社会性が挙げられることが多いが、他にも文化の継承という観点から人間を把握することもある。一般に「人間」という言葉は生物学的なヒト[16]以外を指すことはまず無い。これは文化を(部分的にではなく、包括的に)継承し得るのはヒト以外には無いためでもある。 知能を備えていればCFD とする考え方も古くからあったので、今日のようにコンピュータが普及し人工知能も徐々に実現してくると、どこまでが人間でどこまでが機械装置か、というテーマも浮上してきた。それに関する哲学的問答が存在している(→チューリング・テスト)し、そういったテーマを織り込んだSF作品(フィクション)も最近では少なくない。 また主としてサイエンス・フィクションなどのフィクション類をよく読む若者世代の一部などに、空想を逞しくし、いわゆる「宇宙人」なども絡めた上で人間の線引きを話題にする者もいる。[17] 人民(じんみん)は、法学・政治学の用語で、一定領域において特別な政治的権限を持たないただの人のことをいう。あるいは、君主国の国民たる「臣民」に対して共和国の国民を「人民」と呼ぶ用語法もある。一般的傾向として、厳密な区別を要するような場合には「人民」と「国民」は区別されて用いられるのに対し、それ以外の場合においては通常は「人民」という言い方は避けられ、「国民」という言葉のみが用いられる。共産主義の国では、国際主義の立場から、「国民」(nation)よりも「人民」(people)を好んで用い、そのため本来の語義を離れて「人民」という言葉に、共産主義のイメージが感じ取られる場合が非常に多く、一般的である。「人民共和国」やこれに類する表現(「民主」が前後に付けられることも多い)は、共産主義国に独特の国号となっている(もっともレーニンがヨーロッパ・ソビエト共和国連邦を提案したのが、スターリンによって社会主義共和国にされたのは有名なエピソードである)。 人民は、明治時代に作られた法律・政治用語で、官吏と軍人を除く一般人をいった。明治初期にはそれ以上の含意はなかったが、自由民権運動が、人民の権利と議会開設を求めたことから、「人民」は政治議論の中心概念になった。民権運動の思想は、天皇の権威を拠り所にする政府に容れられなかった。政府側が起草してできた大日本帝国憲法は、かわりに「臣民」という語を持ち込み、ただの人ではなく、臣下の人に対して権利を与える形式をとった。こうして法文上の用語から外された「人民」は、権力者に支配される状態は不当だという語感をまとうようになった。 そのような歴史的経緯、及び第二次世界大戦後の東西冷戦の激化から、日本の政党・政治団体で、少なくとも国会に議席を有するものでは、人民を党名にかぶせたり、政策に人民という語を使うことはほとんど無い(日本人民党、沖縄人民党が議席を獲得した希少な例である。ただし、日経225 は右翼政党であり、二重の意味で希有と言える)。また、国民新党の英語名称はThe People's New Partyであり、直訳すれば「人民新党」となる。しかし、日本語名称で「人民」は使っていない。 上記のような歴史的経緯を持たない西欧語では、人々、人民、民衆をあまり区別しない。日本語の「人々」、「人民」、「民衆」は、単語一つ(英語 people)か、相互に交換可能な単語複数に対応する。「国民」については、西欧語においてpeopleとnationの区別がなされることに注意を要する。 大衆(たいしゅう)とは、社会を占める「大多数の・大勢を占める」とされる人々、またはそれに属する個人を指す言葉である。類義語には民衆(みんしゅう・主に政治用語)があり、危機管理の対象としては群衆(ぐんしゅう)、揶揄を含んで否定的な意味合いが強い烏合の衆(うごう-の-しゅう)などがある。また国家という単位に於いては、国民も同語に類される。政治学、社会学などの社会科学分野においては大衆は匿名性を帯びた無責任なくりっく365 としての意味合いを持ち、顕名性をもつ市民との対比で用いられる。 多くの場合では、単なる「社会の大多数を占める大勢の人々」といった程度の意味で用いられる。三省堂のWeb Dictionary[1]によれば、大衆はもと仏教用語「だいしゅ」から来ており、仏教に帰依した多くの僧をいった。天台宗では役職につかない修行僧を「大衆(だいしゅ)」と呼ぶようになってから、天台座主(ざす)ら高僧に支配された僧の意味合いが生じ、現在の大衆の語源となった、とある。 英語ではthe general public、the masses、the people、popular(ization)などに相当する。popularはポピュリズムの語源である。 大衆に属すると考えられる人々は、しばしば没個性的で、同種の他人と混同されやすい存在であるとみなされる。全体として「突出した能力」や「傑出した容姿」または「類稀なる才能」場合によっては「不快極まりない悪癖」や「言語道断なる害意」を持ち合わせていない存在などとされる。 何等かの存在を際立たせるための対義語として使用され(英雄・指導者・エリートに対する大衆、など)己の優位性を喧伝するために、他を貶める意図で用いられるケースが見られ、しばしばネガティブな意味を持つ語と認識される場合がある。 大衆と良く似た語法に庶民があるが、「庶民」は社会的な特権をもたない諸々の人、一般市民の意(三省堂大辞林)であり、大衆とは標記するものがことなる。たとえば古代ローマにおける護民官(tribunus plebis)に見られるplebis(プレブス:平民)が社会階層としての庶民である。また庶民が登録された市民を意味する場合には顕名性があり、その代表たる者が存在しえるが、大衆にはその意を代弁する者が登場することはあっても大衆の代表者は存在し得ない。 社会の変革において、大衆は常にその圧倒的な数をもって主役となる。古代中国では陳勝・呉広の乱が史上初の大衆反乱として登場した[1]。日本では中世より強訴など群衆の力をもとにした政治活動が見られる。西欧ではジャックリーの乱、ワット・タイラーの乱などの主役となったが、民衆反乱には主導者がおり、彼らの処刑により鎮圧されることが常であった。近代以降はフランス革命より以降、大衆による意思決定(人民集会)が重視される思想(民主主義)が進展した。 現代社会では、文化や芸術面において、商業芸術や大衆文化の最大の担い手(パトロン)となっている。 対比させる対象としては、知識階級や権力階級、または生産者に対する消費者と言った意味合いで同語が用いられる。オルテガによれば『大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである』とされる。しかしけっして愚鈍ではなく、上層階層にも下層階層にも大衆はおり、その全体として「無名」であることを特徴とする。大衆の特権は自分を棚にあげて言動に参加できることであり、いつでもその言動を暗示してくれた相手をほめ尽くし、またその相手を捨ててしまう特権を持つ。大衆とは「心理的事実」であり、大衆にはどこまでいっても罪はない。ゆえに大衆の動きや考えが何かに反映され、それが社会の「信念」だと判断すると重大な問題が生じる、とする。以下はオルテガの観点からの要約であるが、大衆の定義はかならずしもこれに限定されるものではない。