- ■WebSana(ウェブサーナ)
- また、1946年6月、ガンディーは伝記作者ルイ・フィッシャー (Louis Fischer) にこう語っている。 ヒトラーは500万人のユダヤ人を殺した。これは我々の時代において最大の犯罪だ。しかしユダヤ人は、自らを屠殺人のナイフの下に差しだしたのだ。かれらは崖から海に身投げすべきだった。英雄的な行為となっただろうに。 ガンディーはインドを初めて離れたときこそ肉食を試みたが、のちに厳格な菜食主義者になった。英国では菜食主義者協会 (Vegetarian Society) の集会に参加して菜食主義運動家ヘンリー・ソールト (Henry Salt) に出会い、この問題について、ロンドンに滞在するあいだ何冊かの本を著した。菜食主義の思想はインドのヒンドゥー教およびジャイナ教の伝統、そして彼の故郷グジャラートに深く根づいており、ヒンドゥー教徒のほとんどが菜食主義者であった。彼はさまざまな飲食物を試したのち、菜食は体に必要な最低限度を満たすという結論に達した。 ガンディーが16歳のときに、父が末期の病気にかかった。ガンディーは、父の臨床の場において精力的に看病に励んでいたが、ある夜、叔父が来て看病を交代してくれるよう言ってくれた。ガンディーはそれを快く引き受け、感謝の意を表し、寝室へと戻った。そこで、ガンディーは、部屋で寝ていた妻を起こし同衾している隙に、下僕がやって来て父の死を告げた。このため、ガンディーは、父の死に目に会えなかったのである。ドイツの心理学者エリク・H・エリクソン(Erik Homburger Erikson)は、ガンディーの禁欲主義的傾向や、特に36歳の時、結婚したまま一切の性行為を断って禁欲を開始するなどのブラフマーチャーリヤの誓いを果たしたことには、この経験が大きく関係していると指摘する。 このような禁欲主義や苦行と密接な関連を持ったブラフマーチャーリヤ(心と行為の浄化、ブラフマンすなわち宇宙の最高原理の探求)は、ヒンドゥー教の苦行者の間で昔から行われていた。ガンディーのユニークな点は、結婚と家庭を維持したまま禁欲生活を送ったことである。ガンディーはこのブラフマーチャーリヤを自らの指導する非暴力不服従運動の基礎であると考えていた。また、それは神に近づくための手段であり、自己の完成のための消費者金融 な土台であるとも捉えていた。彼は13歳の若さでカストゥルバと結婚をするが、自叙伝において当時における性欲や過激な嫉妬などに対する戦いを語っている。彼は独身者でいることを自分の義務と感じたので、欲情によらずに愛することを学ぶことができるのだと考えた。ガンディーによれば、ブラフマーチャーリヤは「思想・言葉・行為の抑制」を意味する。 ガンディーはブラフマーチャーリヤを生涯追求し、1948年78歳で暗殺される直前まで「ブラフマーチャーリヤの実験」を行っていた。しかし、ニルマール・クマール・ボースの『ガンディーとの日々(“My days with Gandhi”)』において、ノーアカーリーにおけるガンディーの晩年のブラフマーチャーリヤの実験に関して、批判的見解が述べられている。このことは、ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』の中にも引用されている。晩年のガンディーは裸体の若い女性たちとベッドを共にして「自分がほんのわずかでも性欲を感じないか」を確かめようとしたという。ボースや弟子たちはそのことに関して、ガンディーを批判したが、ガンディーは聞き入れようとしなかったようである。本の中には、ガンディーとボースとの手紙のやり取りの中でこのように述べていると書かれている。 私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。[3] あるドイツの精神医学的人名辞典は、ガンディーのためにあてられた全8行ばからりの記事のうちの1行をさいて、彼が『一つのベッドで数人の女性使用人と眠った』という情報―――そのような習慣の時期や期間は明確にしないで―――を提供している。同様にアーサー・ケストラーはThe Lotus and The Robot, London:Hutchinson, 1996.の脚注において、老年のガンディーは一人の若い裸の女性とベッドにいるところを英国の官憲にみつけられたが、CFD らは賢明にもそれを公表しなかったと述べている。 しかし、星野美賀子は、エリク・エリクソン著『ガンディーの真理2』の脚注の中で、これらの情報を以下のように批判している。「このゴシップは以下の事実を無視している。つまり、伝えられる事件のおりにはもう英国の官憲がガンディーを夜中に急襲することはなかったこと。インドの寝室のつくりにはベッドもドアもないこと、熱帯地方においては裸体は特別なものではないこと、そして、その事件全体は秘密ではなかったこと、を」[4]。 晩年の女性とのブラフマーチャーリヤの実験に関しては、どこからどこまでが事実なのかを明確に判断することは難しい。しばしば、これらの実験が、ガンディーの他の莫大な業績に先行して指摘されるのは、エリクソンによると、「結局のところ、偉大な混乱は偉大さのしるしでもありうる」[4]からであろう。 ガンディーは週に一度を沈黙して過ごした。話すのを控えることで、心の平穏が得られると信じたのである。これは モウナ(???:沈黙)と シャーンティ(?????:平穏) というヒンドゥー教の理念から来るものであった。沈黙を守る日には、筆談によって他人と意思疎通した。ガンディーは37歳からの3年半、騒然とした世界情勢は心の平穏ではなく混乱をもたらすとして、新聞を読むことを拒んだ。 独立後半世紀以上もの年月が経つにつれ、ガンディーならびに彼の住宅ローン はインドの社会一般において往時のような輝きを失ってきているといえる。これはガンディーが世界中で「偉人」として認知され、その思想に共感する人々の輪を広めてきた事と対照的とも言える現象である。 独立後20年近くのM&A にも渡って国民会議がインド全土で政権の座を握り続けていられたのは「独立の父」ガンディーの威光によるところも大きく、それゆえ独立後間も無く暗殺されたガンディーは殊更に神格化されてきたとも言える。しかしながら、ガンディーの後継者とされた独立後初代首相のネルーは、経済政策の上ではガンディー主義(Gandhism)に真っ向から対立するネルー主義(Nehruvism)開発経済体制を導入し、生前ガンディーが反対していた産業の機械化・工業化を積極的に推し進めた。このため、インドで多くの人々がガンディーを「国家を独立に導いた偉大な人物」として表向きには称える一方、その反面では彼の人物像やその思想に対して「時代遅れで非現実的」という評価を下す風潮が徐々に顕在化してきた[5]。 そのような状況の中、新たな形でのガンディー再考の試みが映画や演劇などの分野でなされてきている。なかでも現在インドで最も注目を集めているのが、2006年にインドで公開された『Lage Raho Munnnabhai』(??? ??? ?????????, ラゲー・ラホー・ムンナーバーイー)というヒンディー語映画である。作品中ガンディーは、主人公である街のヤクザ者にだけ見える存在として登場し、DJとしてラジオで電話相談をする事になった主人公の口を通して街の人々に様々なアドバイスを与えている。この作品は、いくつもの批判を呼び起こしながらも、人々が新たな角度からガンディーについて考え直す大きな契機を作り出す事に成功し、娯楽作品としての大ヒットも合わせて大きな注目を浴びた。特にこの映画中で提唱された「ガーンディーギリー」(?????????, Gandhigiri)という言葉は、ガンディー主義を意味する旧来の「ガーンディーヴァード」(????????)という言葉が帯びていた、「理念的過ぎて現実的ではない」というイメージを払拭する役割を果たし、にわかにインドでの流行語ともなっている[6]。 第二次大戦中ガンディーは日本を非難する発言を繰り返した。このことについて関岡英之は、「ガンディーを経済的に支援していた民族資本の紡績業者が日本の綿輸出によって打撃を受けた」ことが原因だと指摘している[7]。